新しい病院で。うつ病と、闘う。

新しい病院では、検査の末、

うつ病最重度と、診断


買い物しても買うものを覚えていられない

料理の方法もわからない

目的地につけずに迷う 迷った時にどうしたらいいかわからなくなる


と言った具体的な例を並べられ、 今話した事もきっとわからなくなっちゃうんだよ 


まずここで治療する気持ちがあるならご家族を連れてきなさい。

このうつ病は家族の協力無しでは治らない。


仕事をクビになったとか後回しだよ。

今はそれどころじゃないんだから。

早い時期に連れてきなさい。 


そう言われました。 


私は驚きました。 離婚しひとりで子育てしているのに、それじゃあ子育て出来ないじゃないか・・・。

実家にお世話になるしかないのか・・・?? 

お金はどうしよう 

今住んでる所を引き払うにもお金がいる・・・

私はどうしたら・・・


うつ病の特徴でもある判断力の低下が著しいことを先生はすぐ見破っており、



そんな事は後でいいんだよ

まずはご家族を連れてきなさい


と、それだけを強く伝えてくれました。

母親には幸い、以前の病院での事もあり、病名は知っています。 

ついてきてほしいとお願いすると快諾してすぐ都合をつけてくれました。


仕事を辞めた事は保育園にも話さないといけませんが、こんなカラダの状態では家庭保育は負担でした。 すぐ復職するつもりでもいたので、診断書も書いてもらいたい事を母親にも伝えておきました。


先生の言う通り、自宅に帰ってハンバーグを作ろうとしても、玉ねぎ、パン粉が無いことも忘れてひき肉しか買わず・・・ 

パン粉の代わりに食パンちぎって入れればいいものを、そこまで考えが出来ず・・・

2回買い物に出掛け、ぐったり。 

玉ねぎもパン粉も買いましたが、結局それで疲れてしまい、夕飯はお弁当に・・・


私と子どもの2人だけの生活は無理だな、と、痛感したのでした。  お金も貯蓄を食いつぶしていました。いつまでもコンビニ弁当ではいけないと分かっているのに料理が出来ない・・・


母親との通院までの期間、やってみようとしましたが、出来たのはハンバーグのみ。 後の野菜炒めやそれまで得意だった餃子も全く手に付かず。

野菜を見て決めていたご飯も、全くまとまる気配のないまま、レジに進む私。

食材を無駄にする事もますます増えていました。



母親と通院しました。

先生は冒頭の様に先日と同じ事を言うばかりでなく、もっと難しい話もしていたと思います。

当時の私はモヤがかかったように言葉が上手く理解出来ず、ただひたすら涙が溢れました。



母親は一言、長いお付き合いになるかと思いますがよろしくお願いします。 家族でもうつ病を理解し、本人を休ませるよう努力致します。


とだけ言ったのを覚えています。


その後母親から保育園の件も話してくれて診断書も無事取れました。


まずはよく寝る事、疲れちゃダメ  家事も極力やらないでゆっくりしなさい


と、言われる日々が続くことになります。 

カウンセリングなんて言葉を出しても、自分の整理をつける時期じゃないと、ご一喝。

まだ 療養が足りない。

と、言われ、やっぱり、ゆっくりしなさいと言われたのです。 




その間、父親の苛立ちや兄弟の理解のなさに苦しめられ、母親と妹の理解の深さに助けられて、

自活が少しづつ出来るようになりました。 


通院は2週間に1度

こうできるようになってきた

と言えば 焦るなと言われるけど


少しづつ家事して体を適度に動かして行こうか

と、言われる様な診断結果が出るようになってきました。 


仕事がしたい

そう告げると

まずは1日3時間、2日からならいいよ

と言われました。


そんなふうに雇ってくれるところなんて無いだろう・・・  と、思いましたが

少しづつ求人情報も見るようになってきました。 


まだまだ朝起きるのはしんどい。

保育園の送りは母親に。


夜眠れないので睡眠薬を。


保育園の迎えだけは私が行かなきゃと思っていたけれど、やはり母親にお願いする事がありました。



当時の私は、悔しくて悔しくて・・・ 

どうして私が自分の子を見てあげられないんだ・・・と言う気持ちからこんな自分にイライラもしました。 


調子が悪いと全く動けず

おかあたん、と、寄ってくる子どもを

今は無理・・・あっちに行って・・・

とあしらったりもしました。




段々、この病気の恐ろしい症状にはまっていきました。


父親が言いました


お前に子どもを育てるのは無理だ。


と、大きな声で私に向けて言ったのです。




私には子どもを育てられない母親なんていらない

お前は母親にはなれない

お前はいらない

そう聞こえました。 


お前は

いらない


そうか、なんて事。私はこうのうのうと寝ててはいけない。 死に場所を探さなければ。

クビをつる場所

落ちる場所

自殺の名所


食事を取らなければ餓死するか



もう、生きていく意味がない


そう追い詰められていきました。 


何度も何度も高いビルを見つめ

何度も何度も人の出入りしてい無さそうな山や茂みの奥を見たり。 




幸い私は今尚生きています。 生きていく事が出来ました。それはあるキッカケがあったのでした。 

命の恩人です。


それはまたの機会に。

あの時の保育園の対応。

私が 仕事から帰り、 

子どもを迎えに行ったあの日。


涙が溢れたあの日 



先生はのちの園長先生になられる主任先生を呼んで下さいました。 


おかあさん、どうしたの? 

お子さんの顔みて安心したの?

お仕事、大変なの?


色々と優しく質問してくださいましたが、私はすいません、しか話せなかったです。 

保育園に弱い所をこれ以上見せたら、しっかりしなさいよ!と言われる気がして怖かったのです。 



すると先生は、私の肩にポンと手を起き、



いっぱい頑張っていらっしゃいますね。 



と、一言言ってくれたのです。 




もっと頑張れ、子どもの前で泣くなんて母親失格 

など厳しい言葉はありません。 


もっと、もっと涙が溢れました。 



お母さん、優しいから。ね、 

と、ニコリと笑顔を見せてくれたのです。 


ホッとしました。 あぁ、この言葉は今の私には思いがけない言葉だった・・・!! 


乾いた砂の入ったコップに

ポツリ、ポツリと潤いが戻る・・・ そんなじわじわとした感覚でした。 



職場の悪口を言うわけには行かず、 

仕事が上手く行かない事

前の保育園ではもっとしっかり・・・と言われた事から 

私は母親としてダメなんじゃないかと思うようになった事

を話しました。 


すると先生は 目に涙を浮かべて 


それは本当にお辛かったでしょう? 


と、話してくださったのです。 


私の乾いた砂の入ったコップは、ますますじわじわと潤っていきました。 

それが涙としていつまでも止まらずにいました。


あなたはもう、立派な母親ですよ、大丈夫。私だって失敗いっぱいしたもの!! 失敗しないでいい母親にはなれませんよ! 私がいい母親かはわからないけど、少なくともあなたは母親として立派。そんなふうに思うくらい、お子さんを大事にされてるって事が私にも伝わりますもの。

優しいお母さんだから、ほら、お子さんが心配してくれてますよ!こんなにいい子に育ててらっしゃるじゃない。


足元を見ると、我が子が心配そうに私を見つめ、痛いの?だいじょぶ?いいこいいこする?

と、話してくれていました。


ごめんね・・・ありがとう。

と、我が子を愛おしく抱きしめることが出来ました。 



あの日あの時の先生の対応はまさに神対応。 

先生はこの時に私が病を患い始めていることに気がついていたそうです。  


療養する話になっても、うん、と、頷き、お子さんはお任せ下さい。ゆっくりお家で休んでね。と、理解を示し、診断書のコピーとか書類上必要なものは私が少し落ち着いてから頃合いを見計らって話してくれていました。 



ここの保育園だったからこそ、私は安心して子どもを預け、闘病中のダメな母親を 頑張ってきたからゆっくりしていい時間なのだとゆっくり時間をかけて話し、闘病中のただの母親に戻してくれました。 


闘病中、忘れ物は日所茶飯事。

それでも 返答は大丈夫、園でなんとか出来ますよ。と、ニコリ。 

呆れてるとかそんなふうには見えず

毎日の送り迎え、大変でしょう?と、労ってもくれました。


笑顔になれない時も、そんな日もあるよね~位で特に変わらない対応。

申し訳ない位いつも頭を下げていました。 


保育園のおかげで、我が子はあっという間にオムツもはずれ、トイレデビュー。


お母さん、頑張りましたね!!やったね!!  と、いっぱい喜んでくれました。  

家では子どもがおしっこと言うからトイレに行って、出ても出なくても、お利口さん。と、声をかけていただけ。  そんなふうに言われる事をやった様な気はありませんでした。 

寝る前にオムツを変えて朝一番はおトイレさんへ。 寝ている最中におしっこが出てる事は元々少なかった子なので、朝一番はおトイレさん、成功でした。 


今思えばトイレトレーニングと言うような事はしていなかったと、思います。  朝起きたらトイレに行くのは私も当たり前だから、子どもも一緒に行く。そんな感じで、行くか行かないかは子どもに確認。たまに行かないとも言われ、ま、オムツだし、いっか。 と、自分のタイミングがあるのかな?位でしたし。


本当にここの保育園にして良かったと思っています。 本当に良くしていただきました。 



関係作りの大変さ、その後のケアまで・・・もしかしたら子どもよりも私がお世話になったんじゃないかとさえ思っています。



その保育園は、卒園まではおらず、元旦那の父が私の子どもを探しにあちこちの保育園に来ているとの情報を受け、

本当はもう少し良くなってから

元旦那の住んでいる所から離れたかったのですが

急遽、この地を離れる事にしました。


この地にいては、元旦那の影のチラつきが多すぎる。 

そう思ったのです。 


保育園も賛成してくれました。  

新しい地では苦労もあるだろうけど、きっと幸せになってね。と。


寂しさでいっぱいでした。が、病を悪化させる可能性や、連れ戻される可能性を考えると、誰も知らない場所へ逃げるしかなかったのでした。



通院、診断。うつ病発症。

学校の友人のひとりに 

うつ病と闘いながら通学していた方がいました。 


やっぱり休みがち。

だけども  遅刻しても登校します。 


明るく笑い、ムードメーカーの様な存在でしたが。やはり定刻に来ないことを快く思わない方もいたと思います。 


私にカミングアウトしてくれた時に、もう、限界かも……とも話していて、結果、一年間で学校を去って行かれたのです。 





………………


インターネット検索 

精神科 場所 予約 



そこで出会ったFF病院に、 


うつ病  重度 一ヶ月の療養を必要とする診断を下されました。 




……  ショックでした。 

まさかとは思ったけど、 

ただ、疲れが溜まっただけです。あなたの心は健康ですよ 

と、言って欲しかったのかも知れないけど、現実はあまりに残酷でした。 



職場に電話しなきゃ…… 

でも、…… 


母親にすぐ電話しました。 


これまでの職場の事 

母親が私で子どもが可哀想な事

保育園を変えた事

仕事に行けなくなって休みがちになっていた事 

周りが全部私の悪口を言っているように感じる事 


そして、診断された病名のこと。


母親は泣きながら、

よく頑張ったね。

と、一言言ってくれました。 

それと同時に、職場にはちゃんとあなたから診断書が出たこと、休まなければ治らないことを伝えないといけない。 

とも言ってくれました。 


職場の上司は、まさに絶句・・・と言った様で、じゃあ今日から一ヶ月欠勤ですね、わかりました・・・ 

と、電話を終わらせてくれました。



私はこれからどうなるの?

一ヶ月休んだら、この形の無い病からすぐ立ち直れるの?  

一ヶ月も休んだ後、どうやって顔を出そう・・・ 


そればかりが頭をよぎり、私はもっともっと、疲れていきました。 


通院は1週間に1度 

この頻度の多さに加え、毎回薬が変わります。 

結局、職場に休養すると伝える事を、3ヶ月目に入った所で、お話がありますと、職場に言われました。 


入社して、半年の試用期間があったのです。 

入社3ヶ月後から3ヶ月療養・・・ 

だいたい察しはつきます。

その後の面談では責任者と上司と私で話をしました。

私は辞めたくない、頑張らせて下さいとしか言えませんでした。

上司もだいぶ粘って、本人もこう言っている事ですし、なんとか出来ませんか?と、私の仕事目の前で責任者に食い下がってくれていましたが、例外は認められないと、試用期間満了につき、退職する事になりました。



一ヶ月で復職出来ると思っていた 

3ヶ月も休職してしまった 

そして事実上の解雇



FF病院に不信感が産まれました。 

試しに

入院って・・・と、聞くと 

あぁ、入院ですか?出来ますよ。入院、しますか?

と、言われたのです。 


入院って本人の意思でするものなのか・・・??

いや、違うだろうな。


ここでやっと、通学していた時の同じ病で闘う友人を思い出しました。 

友人は、闘病長くいたけど良くなって通学出来るようになったと、話していたのを思い出したのです。 

連絡し、同じ病院を紹介してもらうことが出来ました。 



私は、実はうつ病では無くて、ただ疲れが溜まっただけで、気の持ちようでなんとかなる位ですよ、と、言われる可能性もあると思って病院に行きました。 その友人に連れられて。


しかし、診断は変わらず、うつ病最重度。と、検査の結果言われてしまったのでした。

うつ病、発症? おかしいと気づくまで。


四月から新しい仕事になり、忙しかったのはあると思います。 


離婚から3ヶ月程立ち、疲れもあったんだとと、感じていますが、

そればかりが原因でも無く、

きっと自分自身、弱く、もろくなってしまっていたのかも知れません。 自分のストレスを吐き出すことが出来なくていたのか…… 


確かに自分を過剰評価していたのかもしれないです。 



母親の私 

職場の私


ひとりでやらなければならない私。






職場に必ずいる クセのある方


と連携をとるポディションに新任でつきました。

ソレは私を評価してくれた採用時の上司の判断です。 

当時の私はまだまだ、理想的な仕事を捨て切れず、会社のカラーに馴染もうと出来ませんでした。 

豪に入れば郷に従え

上手くやらなきゃいけなかったのに、衝突や、葛藤をこらえきれずに、いたのです。 


上司も同僚もきっとやりにくかったに違いないと思います。 




職場でクセのある方、クセ子さんから集中攻撃を受けるようになりました。 



それくらいの仕事に時間使い過ぎじゃあありませんか?! 

だからといって手を抜く事とはちゃいまっせ。


この仕事はそんなに甘くはないんでっせ。


あ〜!あきまへんわ!!!  



こんなに関西弁が、チクチク来るとは思わなかった。 

顔を合わせれば、私の仕事内容にケチをつけて、重箱の隅をつつかれ続けたのを覚えています。

上司も、大丈夫か?と、心配してはいるものの全てをカバーしきれないほど、ネチネチとアレコレ自分流のやり方を上司の教えてくれる方法を覆しながら話していました。  

初めての職種、初めての管理補佐・・・ 新任が就くには重すぎたのかも・・・私の力不足は否めませんでした。


通勤に1時間30分・・・ 

高速使って30分・・・ 


段々朝、起きられなくなってきました。 

保育園に預けるのもギリギリ。

忘れ物も増えました。 

保育園の先生に お母さん、もう少ししっかり・・・ と、言われたことが、余計にプレッシャー。




母親として、もっとしっかりしなさいよ。あんた、シングルマザーでしょう?


職場でも、ちゃんとやれてんのか疑問だわ。 



そんなふうに聞こえ始めていました



私は保育園を市立に変えました。



知り合いのお母さんが預けている保育園なら、少しは気持ちも変わるかと思ったのです。



ある日、仕事から帰り、子どもを保育園に迎えに子どもの顔を見ると・・・ 

涙が溢れました。 


ぎゅっと抱きしめ、

ごめんね、ごめんね・・・ 


それしか言えなかったのです。 


保育園を変えてごめんね 

迎えが遅くなってごめんね 

私が母親で、ごめんね・・・ 


この時の保育園の対応は後に述べようと思いますが、私はずっとこの保育園に通いたいと本当に感じた対応をしてくれていました。感謝です。 



そんな事当時の私はわからずただ、涙が止まらず、謝りながら帰宅。 

夕飯はいつものコンビニ弁当…… 


もう、限界だったのだと思います。



朝起きて、支度をして、保育園に。


さぁ職場に・・・・・・ 


職場に・・・・・・ 


いけない。 

道がわからない。 

降りなきゃいけない高速の出口を間違えていました。 


いつもの分岐を間違える 


その後のリカバリーなんて出来なかった。 



パーキングエリアで、職場に電話をしました。 


体調が優れないので・・・と。

次の日も、その次の日はなんとか行けても、また次の日はやっぱりダメ。




同じパーキングエリアで電話をする自分を 初めておかしいと、思い始めました。

うつ病にかかるまで。離婚決意

離婚を決意したら、やる事は一つ

判子をもらうこと

でした。


離婚の話を持ち出す度に 馬乗りになり、首を絞める元旦那。

殺せるものなら殺して下さい

と、涙ながらに言ったような気もします。 


身体の関係も迫られ半ば無理やり中だしされて、不幸にも妊娠してしまいました。


お腹の子どもを産み育てながら学校に、通うのは無理です。


私は悩みました。

とてもとても・・・


でも、元旦那とはもうやり直せる気はしなかった。 元旦那の子どもを産むことになれば、離婚は難しいだろう・・・


また、怯える毎日です。もうそこには戻りたくない。


私は中絶を選びました。

 

あの時の赤ちゃんは私を怨むでしょうか・・・。 お骨もないまま、あの赤ちゃんは私のわがままで殺してしまいました。


学校の勉強はそれまで以上に力を注ぎました。赤ちゃんよりも勉強を選んだのです。犠牲はとてつもなく大きなものとなりました。


卒業間近、私はやっと逃げるように実家に帰りました。着の身着のまま・・・車には沢山の内緒で詰めた子どもの服。


離婚の話し合いも感情的になり、話し合いになりませんでした、別居しなければまた威圧されると思い、靴も履かずに子どもを抱きしめて階段を駆け下りたのを今でも覚えています。


父親には離婚届の証人をお願い出来ませんでした。 

母と妹が証人として書いてくれました。 

妹の

お姉ちゃんが私のサインで楽になるなら、私は何だってするよ。

と、言ってくれた言葉は今も胸に刻まれています。感謝しかありませんでした。


離婚届を郵送し、後は別居生活。


何ヶ月かわかりませんが、判子の押した離婚届が帰ってきました。


後の手続きは卒業間近に済ませました。性をかえる、子どもの性をかえる、あちこち学校の合間を縫って終えた怒涛の日々だったと思います。


卒業式には旧姓で呼ばれ、周囲の生徒は名前を間違えたと、思った様でしたが、ホッとした、と、思います。 

と、言うのも正直内定も決まっていたので、気持ちは既に仕事に向いていたんだと振り返るとそう、感じます。



私は、やっと元旦那の呪縛から逃れられたと、この時は思っていたのです。



しかし、それは現在でも、苦しめられています。 思い出すのです。あざの出来た私を。

首元を覆うタートルネック、首を巻くマフラー、ネックレス。

未だに出来ません。  怖いのです。 

誰かに触られるのも嫌になったのもこの時期からだったと思います。 

その手が一体どこまで来て、どんな強さで私を触るのか・・・ 


人間を信じる事は容易ではありませんでした。


手をつないで歩けるのは唯一自分の子どもだけでした。 抱きしめるのも、何をするのも自分の子ども以外はためらった風に記憶しています。 


こんなにも傷が深かったのか思い知るのはまだまだ先の話になりますが、その時はそのうち良くなるだろう~位にしか思っていなかった浅はかな私でした。





うつ病にかかるまで。

本当にコレは何がトリガーになったかわかりません。 

元旦那のDVか、育児ノイローゼか、妻、母としてのイデオロギーか。


始まりは結婚後のDVでした。

お金の使い方が荒く、どんなに貯めても私の目を盗んでお金を引き出しパチンコスロットに行く元旦那。 

若かった私は男のプライドなんて関係なく詰りました。  挙句、彼は俺の稼いだお金を自由に使えないのか?!と、私を突き飛ばしました。 


お金を引き出す度に夫婦喧嘩。


でも、それ以外は優しく優しくしてくれる彼に惑わされ、子どもを妊娠しました。 

それでもパチンコスロットは、辞めてくれずにその度に喧嘩の毎日。 

出ていく!!と、啖呵を切った私を追いかけ俵担ぎし、連れ戻され、落とされました。 暴れるから落とすしかなかったと、後に彼は話しますが、私は追いかけられ捕まるという恐怖を植え付けられる事となります。


早く離婚したら良かったですが、

何度も書きます

それ以外は優しく、仕事もしっかりしてくれる傍から見ると良い旦那だったのです。


子どもが生まれ、初めての育児、協力する人はおらず、1人でギシギシ言う身体に鞭打ち、新生児を連れて買い物、洗濯、料理、全部こなしました。 

身体が言う事をきかず疲れきり、子どもと一緒に寝てしまい、夕飯を作ることなく旦那が帰ってくると大変です。 

1日、何してたの?!まさか寝てたの?!

ひどいじゃないか、外で働いてきたのに、夕飯もないのか! 

不機嫌になり、無言でゲームを始めます。 

ゲームの間に夕飯を支度しろと、言う意味です。 



言いますが産褥期と言うのがありまして、2ヶ月程は無理のない生活で特に産後1ヶ月は、新生児と一緒に寝てお乳をあげ、寝るだけの生活をしなければ身体が回復しません。 


元旦那は全くそれを知りませんでした。 

私の甘さもあったかと思います。 新生児との産褥期は乗り越えられるだろうと思っていたのです。 


そんな身体にも限界が来ました。 悲しくてたまりません。身体はギシギシ・・・悪露も全く減らず量は増えるばかり・・・   コレはヤバイ。倒れる前に実家に帰らなければ。 


実母に頭を下げると、涙ながらにすぐ迎えに来てくれました。  

それから3ヶ月以上帰れませんでした。 身体の回復が遅く、なかなか悪露も止まらず、歩くこともままならない生活でしたから。


元旦那と言うと、買いだめしてあった冷凍食品やカップ麺、近くのスーパーでお弁当を買って、自分で洗濯して過ごしていたようです。 お金は置いて来たので自由にやっていたのでしょう。 

寂しいから帰っておいで、と、何度も言われましたが、体調が回復するまで待っていて下さいと、度々断りました。 実家に迎えに来ることもありましたが実母がうまく追い返してくれたようです。



私はなんてダメな妻なんだ。 

旦那と子どもの世話も出来ないで・・・ 

世の中ちゃんとやってる人はいるのに・・・

なんで私は出来ないのか・・・やれば出来るのかな。やらないだけなのかな・・・



身体が回復し、子どもの体重も増え、首もすわった頃、やっと家に帰ることが出来ました。 

悪露もやっと止まり、母乳も軌道を乗ったので今帰らなければ母親失格の烙印が押されると思ったのです。


家に帰れば子どもを可愛がる時間はありませんでした。

元々家事が苦手な私は掃除洗濯家事に追われ、一人増えた洗濯物に四苦八苦。

ヘトヘトでした。 可愛くないと言ったら嘘になりますが、このヘトヘトな毎日に疲れ果て、子どもにどんな風に接したら良いかもわからなくなっていました。 授乳、着替え、オムツ交換、全ての声かけは敬語。なぜそんな他人行儀だったのか今でもわかりません。 悔やまれます。


この世界から抜け出したい・・・ 


子どもが8ヶ月の頃だったと思います。


元旦那は私が働きに出ることには反対でした。家事育児が満足に出来ていないのに、無理だと。

でも、私はこの世界から抜け出したい・・・私でも社会の一つの歯車になりたかったんです。


偶然あった資格取得学校、そこで専門学校卒業の資格と共に国家資格も取得出来るとありました。職業訓練なのでお金はかかりません。 


そこに元旦那に反対されたまま、応募。

合格したのです。


私はやっとこの世界から抜け出せる・・・!!と喜びでしたが、元旦那は全く応援する気は無く、掃除洗濯がされていない事に常に腹を立て、子どもを保育園に預けることも嫌がりました。

もちろん保育園の送迎は私がします。

夕飯も私が。

掃除洗濯それに勉強・・・育児・・・ 

やってやれないことは無いと、頑張りました。



お金の管理を少し怠りました。 

気がつくと預金が半分以下になったのです。

元旦那の使い込みでした。 


なぜ私は頑張っているのにあなたはお金を勝手に引き出すの?!飲み会は月に何度もあっては困る!!パチンコスロットも好き勝手にされては困る!! 


問い詰める私に元旦那は

お前だって好きにやってるだろう?! 俺の稼いだお金の使い方に文句言うなっ、と、私の首を締めたのです。アザが出来るほど。


学校へは素知らぬ顔で通いました。 季節は夏。首元は隠せませんでした。 

同級生は心配してくれました。 


私はやっと目が覚めたのです。 

元旦那、この人の側にはいられない、と。


優しく仕事を真面目にしていたって殺されてはたまりません。  自分の子どもがやっとやっと可愛くなり、敬語も無くなり始めた頃でした。


私は離婚を決意したのです。

うつに見えないうつ

私はうつ病です。

と、どれくらいの人がカミングアウト出来るでしょうか?

私はうつ病にかかって5年闘病していますが、うつ病だと伝えても大丈夫かどうかを常に気にしています。

うつ病に見えない様に装っています。


調子の悪い時は笑顔で誤魔化すことだけに頑張りを置いて、仕事はほとんど足でまとい。

調子のいい時は、コレが本来の私と、言わんばかりに仕事に集中します。 


調子の善し悪しは人によるのだろうと思うのですが、ここ2年位は自殺願望も無くなり、ちょいとネガティブな発言をする変わったやつ。位になってきたつもりです。


誰だってうつ病だと知られたくなくて、隠していると思いますが、やっぱり気のおけない関係になりたい場合は伝えているのかな?と、思います。


いつも笑っているし。明るく見せるし、仕事も頑張ってるし、家庭もしっかり大事にしている。

そんなうつ病の私がこの生活を手に入るまで様々な葛藤がありました。


私はうつ病でも、フルタイムで働ける、働くしかない、と、仕事をフルタイムでやってみたり、子どもも立派に育ててみせると、セオリー通りに行くように生活リズムは特にセオリー!!

もちろん家事は怠けてはなりませんね、掃除洗濯食事に関して一汁三菜を守って!!

主人には家事はさせないつもりで全部自分がやります。


なんて、思っていた自分が恥ずかしいです。 

病気だから、今は休まないといけないのに、無理したら悪化するのに、私は休むこともなく無理しました。 

私は出来ると思っていたのです。


実際は、全部無理で、事態は悪化。

実家に帰って全てを放棄し、自ら死を選ぼうとまでしました。 子どもは、実母に後はお願いしますと、頭を下げた事も。

森や林を見て周り、どこが死に場所か、探す事もありました。食事なんて、そんなものいらないし、お風呂に入る気力すらわかなくなりました。職場には診断書を提出するも、解雇。

自分はなんてダメな人なんだ。

と、言う自念は常に持っていて何をするにも謝っていました。


今なぜ、こんなにもうつ病の症状が落ち着いたのか、

自分はうつ病だと思っていいのだと、認め始めてきた頃だった様に思います。

後ほど詳しく書く事と、して。



無理せず働く時間は短く。

家事は出来る時に出来るだけ。

子どもと笑いあえればラッキー!!子どもの前でだけは泣かないで楽しい話をたくさんしよう。


今の私の出来る限りの事を出来るだけやる。 それ以上は求めない。 今の生活で大切なのは自分が死なずに、安心すること、安定する事に専念しています。 

理解ある家族に恵まれ、今の出来る限りの出来るだけの生活ができるようになりました。


少しだけど、普通に近寄ったかな? 

少しだけど、自信もっていいかな?


職場では、いい話しかしません。悪口は基本聞きたくないので、良いところもあるよと、話して、終わらせられる様になってきました。


笑顔を大切にしてきたのももしかすると良かったのかも、知れません。 


家庭では家事を怠けることもあります。ご飯はたまに手抜きです。 それでも美味しいねと、子どもと話して食べます。 


うつっぽくない私が少しづつ出来てきました。


回復にはまだまだですがうまく病気と付き合いながらやっとたどり着いた所です。


ここまで長かったような・・・


個人差がある病気なので、それぞれ症状は違うと思いますが、生きてるのが辛い時は残された家族、自死を遂げた後の後処理色々真面目に考えて、迷惑をこれ以上かけない様に。と、そこだけはぶれないでいて欲しい病気です。