うつ病にかかるまで。離婚決意

離婚を決意したら、やる事は一つ

判子をもらうこと

でした。


離婚の話を持ち出す度に 馬乗りになり、首を絞める元旦那。

殺せるものなら殺して下さい

と、涙ながらに言ったような気もします。 


身体の関係も迫られ半ば無理やり中だしされて、不幸にも妊娠してしまいました。


お腹の子どもを産み育てながら学校に、通うのは無理です。


私は悩みました。

とてもとても・・・


でも、元旦那とはもうやり直せる気はしなかった。 元旦那の子どもを産むことになれば、離婚は難しいだろう・・・


また、怯える毎日です。もうそこには戻りたくない。


私は中絶を選びました。

 

あの時の赤ちゃんは私を怨むでしょうか・・・。 お骨もないまま、あの赤ちゃんは私のわがままで殺してしまいました。


学校の勉強はそれまで以上に力を注ぎました。赤ちゃんよりも勉強を選んだのです。犠牲はとてつもなく大きなものとなりました。


卒業間近、私はやっと逃げるように実家に帰りました。着の身着のまま・・・車には沢山の内緒で詰めた子どもの服。


離婚の話し合いも感情的になり、話し合いになりませんでした、別居しなければまた威圧されると思い、靴も履かずに子どもを抱きしめて階段を駆け下りたのを今でも覚えています。


父親には離婚届の証人をお願い出来ませんでした。 

母と妹が証人として書いてくれました。 

妹の

お姉ちゃんが私のサインで楽になるなら、私は何だってするよ。

と、言ってくれた言葉は今も胸に刻まれています。感謝しかありませんでした。


離婚届を郵送し、後は別居生活。


何ヶ月かわかりませんが、判子の押した離婚届が帰ってきました。


後の手続きは卒業間近に済ませました。性をかえる、子どもの性をかえる、あちこち学校の合間を縫って終えた怒涛の日々だったと思います。


卒業式には旧姓で呼ばれ、周囲の生徒は名前を間違えたと、思った様でしたが、ホッとした、と、思います。 

と、言うのも正直内定も決まっていたので、気持ちは既に仕事に向いていたんだと振り返るとそう、感じます。



私は、やっと元旦那の呪縛から逃れられたと、この時は思っていたのです。



しかし、それは現在でも、苦しめられています。 思い出すのです。あざの出来た私を。

首元を覆うタートルネック、首を巻くマフラー、ネックレス。

未だに出来ません。  怖いのです。 

誰かに触られるのも嫌になったのもこの時期からだったと思います。 

その手が一体どこまで来て、どんな強さで私を触るのか・・・ 


人間を信じる事は容易ではありませんでした。


手をつないで歩けるのは唯一自分の子どもだけでした。 抱きしめるのも、何をするのも自分の子ども以外はためらった風に記憶しています。 


こんなにも傷が深かったのか思い知るのはまだまだ先の話になりますが、その時はそのうち良くなるだろう~位にしか思っていなかった浅はかな私でした。