うつ病とトラウマ

自分でも、わかっているんです。

過去は変わらないこと。 




でも、未だに怖いのは 


元旦那に似た姿形の方 


大きな音 


首の周りに付けるもの



克服する為に、わざと首の周りに付けるアクセサリーをしたりします。 


大きな音のする花火大会に行ってみたり。




死にたくない、という気持ちと

あの日の死んでも構わないという諦めの気持ちが


せめぎ合う心は 


今も痛くて、苦しくて、

重たいです。




少しづつ  軽くしたい。



時間が風化してくれると信じたいです。



それだけじゃダメなのかも知れないけど、


遠い土地に逃げても、心が安定する日はありませんでした。



追いかけて来るようで怖いのです。




でも、わかっているんです。


追いかけて来られるはずはない。

追いかけて来て、どうするわけでもないこと。


もう、赤の他人。



未来を向かないと。 


未来は、幸せな明るい未来。


うつ病は、病気です。 

障害ではありません。

必ず治ります。 



必ず治ると信じて、 明るい未来へ、

毎日笑える明日へ、


1歩1歩、進みたい。



その1歩は、スモールステップでも、構わないと思います。 


今日1日、涙を流す時間が少なかった。



泣いてもいい、 

それが明日の私が幸せになる1歩なら、無駄な時間ではないのだと信じて。

職場にカミングアウト



週4日、5時間 

の、仕事でした。 


働いて、2週間…… 

週5日、6時間になっていました。 




それでも文句は言えませんでした。  職員が圧倒的に少なかったので定時に上がると、ほかの職員に迷惑がかかるので、仕方なく残業していました。



段々、家事が出来なくなってきました。 

馴れない仕事が次第に長い時間になっていくのです。負担は家事の出来なさに現れてきました。 


旦那も、分かっています。 出来る限り家事をフォローしてくれました。



これではいけないと思いました・・・ 

責任者にお願いすると、 


良いけど、どうしたんだ??と、心配してくれました。 


前の職場は責められました。 

今回の職場もそうかも・・・

でも、言わないと・・・ 


うつ病である事、今は落ち着いているが、いつまた再発するか分からないこと。疲れやすく、疲れが溜まるといきなり糸が切れる事・・・


話しました。だから、辞めなきゃいけないなら言って下さいと。



責任者は、分かった、と、言うと

こう続けてくれました。



病気を治すつもりで、仕事においで。



うつ病に理解のある職場なんて、多分多くない、

その中で、私はありがたい言葉をいただけたと、思います。


その言葉に甘えることなく、出来る限りをしようと決めたのです。


うつ病再発。そして今。

地域ルールがあるとして、

豪に入れば郷に従えとして、


私はいつまでも頑張っていけない体だと言う事を知らず知らずのうちに忘れていたのかも知れません。 


育児

家事

仕事


また、私はソレに押しつぶされる形になりました。 


旦那はずっと心配してくれていたのに、大丈夫、大丈夫!!と、無理をしたツケが回ったのかもしれません。 



涙が止まりません。 

苦しい。

助けて。

悲しい。

辛い。


今の旦那はそれらを受け止めて、無理をしなくてもいいんだよ、と、なだめてくれました。 

仕事も辞めて、家でゆっくりしようか。 と、言ってくれました。 

もちろん家事はほとんど出来なかったと、思います。 食事も喉を通らず、買い物に行けず。


ただただ、横になっていました。

悲しくてたまりません。

無力だな、と思っていたと、思います。



そんな中、 先生の言葉を思い出しました。

週3日 3時間から。


そんな仕事があるなんて思わなかったので、探しもしていなかったのですが、

短い時間なら、長く続くかも知れない。

いつまでも同じ事を繰り返してはいけない。


私の出来る力は きっとほかの人と比べると微量なんだ、

と、やっと認める事も出来るようになりました。



今の自分を認める事、


それから2ヶ月後には、家事、育児もなんとかこなせるようになりました。 


朝早く起きる事は未だに難しい日もあります。

でも、以前のように悲しくてたまらなくなる日はぐんと、減ったと思います。


料理も始めました。 

出来ないなら、出来るものだけで良いのだと開き直りに近い様子でしたが、ちゃんと作れるようになってきました。


ガパオライスが食べたい、

カレーライスが食べたい、

キーマカレーが食べたい、


少しづつ食べたいモノも出てきました。 すると家にいながら少しづつレシピを調べて頭の中で料理をしてみることが出来るようになってきました。


イメージがわくと、実際に料理も出来るようになっていました。

たまに失敗しましたが、家族は笑ってくれました。


何事にも一生懸命になり過ぎる性格なんだろうとこんな歳になるまで気づけなかった。

一生懸命になり過ぎると疲れやすい。

ある日突然、ポキリとエンジンが壊れる。


弱くて、全力を出せないエンジンで、これからも上手く付き合って、壊れないようにただひたすら動かしていかなければ・・・


自宅で療養するとは、きっとそんな自分自身を認め、今後をどうプランニングするか・・・と言う時間でもあったのでした。


今回は2ヶ月後から求職活動を始めました。

フルタイムではありません。

パートで週3日から4日 

時間も短い時間で。


時給は最低賃金からですが、それよりも身体を大切にしなければ、上手く体と付き合わなければ、また療養が待ってます。


もう、療養は充分にしたと思います。もう、療養する様に無理はしない。


探してもなかなか見つかりませんでした。 それでも良いのです。 

フルタイムの求職を旦那に見せても首を横にふるばかりでしたから。


そして、条件に合う会社をやっと見つけたのです。 

会社内の空気は大切です。

面接の前に、見学する事にしました。


旦那もソレに賛成してくれて、見学しました。


見学だったけど、実は面接で、その日の内に内定を頂いたのでした。 


病気の事は言えませんでした。

うつ病再発。




正社員になって半年の事。

涙が溢れました。 

止まりません。 



年末の忙しい時期。



私はやらなきゃいけないというのに、仕事に行けなくなったのです。 


それは突然に起こりました。自分でも何がトリガーか、わかりません。 


新天地で、元旦那に似た人の背後を見るのです。 ぎくりとします。 


別人です。 


職場で私の名前が出たコソコソ話が聞こえました 


全て悪口に聞こえてしまいます



疑いの目はますます強くなります。 

年末の忙しい時期、人は忙しいと本性が現れると思います。 

職場も本性が現れ始めたのでしょうか。 

それとも私の本性が現れて、嫌われ始めたのでしょうか。 


わかりません。 



通院すると、2ヶ月の療養 


面接時私はうつ病だった事は言いませんでした、経過観察だからです。 

それを契約違反だと責任者は言って怒りました。

なんでもっと頑張れないんだ、と。


心のどこかで何かが崩れたり切れたりする音がしたと思います。 



ついていく人を間違えた。


またやってしまった……

新天地でも、病院は替えずに。

引越しをする頃には私も働いて良いくらい、うつ病も良くなってきました。 


薬の減薬も上手く行っているし、家事育児もこなせるようになっていました。 


あんなにダメだった食事も少しづつ無駄に買わなくて済むようになってきたのです。 



先生はまだ早い、再発率が高い病気だから、安心してる時にまた出る可能性があるよ


と、おっしゃっていました。 

転院する事は考えていませんでした。 

ここまで良くなったのも先生のおかげでもあると思うのです。 


遠くても、通院は続くこと、

新天地で、無理なく働く事


条件はこれだけ。


とても大変な条件でしたが、職を見つけフルタイムのパートで働き、自立にまた1歩踏み出す事になりました。 


父親は、命の恩人に頭を下げて

よろしくお願いします

と、話していました。 


きっと本当に心配だったんだと思います。 



後に彼も私のアパートで暮らし始めますが、この時は近くの家で別々に暮らしていました。 


そのフォローもして欲しいと言うお願いも入っていたに違いありませんでした。


フルタイムの仕事について、病気の根強さを感じます。 

瞬時に答えを導き出せない

どっちのやり方が効率的かがわからない



一つひとつ丁寧に誠実にまじめに・・・ただそれだけを念じて週5日働くのはやはり心は疲れやすくなりがちでした。 

少しづつ家事がおろそかになりました。 フォローしてくれたのはやはり命の恩人。


一緒に住む方がよりフォロー出来ると思うと言ってくれました。 


地域が違えばその地域ルール頑張って存在します。そのルールにも悩まされますが、恩人に助けられなんとか馴染めるようになりました。 




私は恩人無しでは、役立たずな部分が多くあります。でも、恩人は私がいないとオレが役立たずみたいじゃないか、と、言います。


お互いがお互いに必要としている


この関係が  やっと本当の夫婦なんだろうと感じ始めました。


前の結婚生活を思い返すと天国と地獄の様です。



私は死んでいないけど、天国にいるようです。 

相手が頑張ってくれるなら、私も頑張れる。



減薬も進みながら、フルタイムで働けるようになりました。 


薬を飲んでいなくても、検査の結果は平常値。


私はやっと完治したのです。 


しかし通院は続きます。

一ヶ月に1度。経過観察です。

3年以内に再発率が高い病気がうつ病です。 


無理するとすぐまたうつ病になります。 


私はまた無理をしてしまいます。 フルタイムのパートを辞めて 

正社員で働こうと決めたのです。 

人間関係が熾烈な女性の多い職場に戻ることに決めたのです。





命の恩人



離婚をする時期、

かなり私の表情は硬かったと思います。 



ライフイベントの真っ只中。 



学校の1人からメールがきました。 


大丈夫ですか? 


同じゼミの方でした。  元々、ゼミ長、副ゼミ長として交流のある方でしたが、ゼミ以外は昇降口ですれ違いざまに挨拶する程度。授業もかぶりませんでした。 


大丈夫ですよ、何かありましたか?


私は彼に特に心配させる必要もないと思い、何も伝えませんでした。 



後から知った話ですが、元々彼は私に好意を寄せており、でも、私が結婚してる為気持ちはセーブしていたようです。 

仲の良いゼミ仲間

でいようと思っていた、とも話していました。


何かあるなら相談に乗りますよ。 

いつでも連絡下さい



と、気にしてくれて、正直嬉しかったです。


当時の旦那は、高圧的で金遣いも荒く、家に帰れば私は召使い。人として扱ってもらえていたか・・・  性欲の処理、空腹の処理、身支度の処理、空間が整理されている事は当たり前。

感謝の言葉は一つもありませんでしたし、どこに何があるのかすら把握していない状態。


ひとりでは何にもしない人で

口論になると必ず壁に穴を開けていましたのでもう、ヘトヘトだったのです。 



その元旦那からの別居。

そして離婚届の受理。


走り続けていた私は、やっと疲れる表情を許された時でした。 



そこからたわいないメールのやり取りが始まりました。 



気にかけていただきありがとうございます。

今度ゆっくりお話出来たら、と、思います。もう少しで決着がつくので!!


など、何の決着かわからないような内容ででも、やり取りは卒業式間近まで続きました。 


名前が変わった時に初めて離婚したことを告げました。 離婚の内容は私の周りの友人からチラホラと聞いていたようでしたが・・・。

根掘り葉掘り聞かず、メールだけのやり取り。


少しづつ距離も縮まり始め、卒業する頃にはお付き合いをさせてもらえる事になりました。




後ろめたい気持ちももちろんあったし、離婚してすぐほかの人と付き合うのはどうかしてるとも思います。 

彼も同じように思っていた様でした。



私達は私達のゆっくりとしたペースで互いに負担になることなく1日1通のメールで卒業後もいました。 


病気になった事も快く受け止めてくれ、色々と勉強もしたそうです。


ある日私は死のうと思うと話しました。


もちろん止めてくれましたが、

止め方が  本当にハッとする様な止め方だったのです。 


葬式も出来ない様な遺体だと、周囲は疑うよね。両親はその後片付けもするんだよ。

あなたは死んで終わりかも知れないけど、死んでから始まるご家族の心の病気が心配だな。

あなたと同じように苦しむんだと思うんだけど。



うつ病の人が増える?

私の大好きな家族に・・・?


これだけ迷惑をかけておきながら、死んだらもっと迷惑をかけて、うつ病までうつすの?



私は、死んで終わり

葬儀もせず、お骨も拾われず無縁仏。

家族には忘れ去られて、おしまい。



そんな事思っていたけど、実際は違う。


私の今の苦しみを、家族に与えたくない。 本当に苦しいから。 自分を不甲斐なく思うのなんて私だけで充分・・・  

母親も父親も立派な人だと思うから、余計に思って欲しくない気持ちが強かったです。 




この人に話して良かった・・・ 


死にたい気持ちが

少しづつ薄れていきました。 



そんな矢先に、元旦那の父親が保育園を嗅ぎまわってる件を聞いたのです。


死んでしまう気持ちよりも先に、逃げなきゃいけないと思いました。 



やはり、彼に相談しました。この土地を離れようと思う、と。


じゃあ私の元に来るといい


彼の暮らす土地は確かに私が暮らす土地から離れていたのです。 


俗に言う遠距離恋愛?でも、同じ県だったし、元々会う頻度も少なかったのでそう感じる事はなかったですが。


急に決まった引越しですが、 命の恩人がそばにいるので、私はこれから先も死のうとは思いません。  生きて、迷惑をかけた分、感謝の気持ちで返していこうと決めました。 

父親にも母親にも今の旦那にも。

あの時のダメな私を救ってくれて、支えてくれてありがとう。 



そして新しい土地での生活が始まるのです。

家族の理解の難しい話

いきなり 

はい、今日からうつ病の娘でーす


と、言われても、さっぱりわからないんだと思います。 

普段通りですから。


兄弟にも私は不安な顔は見せませんでした。


母親と妹の前でだけ、弱くもろい自分を出せました。 



父親と兄弟には出さなかったのではなく、出せなかった

のです。 


理解出来ないだろうと思い、あえて明るく振る舞い、調子が悪い日は部屋にこもりました。



診断が下されてから、私は実家に戻ることにしました。 


でも、働く事は諦めていませんでした。 少しづつ良くなって自分の家で生活出来てから、引っ越そうと思っていたので、自分の家は引き払う事はしませんでした。 

それにしてもお金がかかります。 

お金は全て母親に一時的に管理してもらいました。

貯蓄

傷病手当

失業保険

児童扶養手当

母子家庭手当


私の場所は県の団地だった為、非課税の世帯には家賃が変わりました。 

ただではなくとも、なんとか1年はここにいられるかな、と、言う様な計算を母親としました。



通学時や、社会人時代に貯めていたお金、(結婚後もそれだけには手を出さずにいました)でもそれだけじゃ足りず、父親は私の生命保険のお金や車のローンも支援してくれました。 

感謝です。 本当に父親には頭が上がりません。



金に困ったら街金に借りる前に父親に相談するんだぞと、ことある事に言ってくれたので、お金の話は父親が安心させてくれました。 


たまに、自宅に帰ってハンバーグを作り、洗濯をして・・・疲れたら実家にお願いして・・・


こんなに恵まれていたのに、


私は死のうとしました。 


生きている価値のない人間だと思ってしまいました。 


こんなに尽くしてくれる家族の為によくなろうとは思わず

こんなにさせてしまった私がいなければ苦労はなかっただろうと、そう思ってしまったのです。